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プロフィール

はじめまして!
のりたま(ニックネーム)です!

私は営業として会社勤めをしている普通のアラサーママです。
実家や義実家はなく、夫と子ども2人(2歳と0歳)を育てています。
現在は下の子の育児休業中です。

そんな私にはある目標があります。
それは、家で働いて1年後に月収20万、2年後に月収40万を達成することです。

「会社勤めの育休中なのに、家で働くってどういうこと?しかも2年後には月収40万!?」

と思われたかもしれませんが、
第二子の育児休業中の今だからこそ、「副業として家で働けるスキルを身に付けて営業職を辞めよう。」と決意したのです。
きっかけは、第一子の育児休業明けの復職でそれまで積み上げたスキルがなくなっていることを実感したことで今後の働き方について深く考えるようになったからです。

子どもの人生がかかっているのだから、母ちゃんやったる!

急に変なキャラが登場したのはさておき、(笑)
なぜこの目標を立てるに至ったのか私の自己紹介を含めてお話します!

基本情報

名前:のりたま
年齢:29歳
職業:会社員/営業職
趣味:和太鼓、手芸
好きな食べ物:お肉

興味のあることに熱中した幼少期~中学時代

トラックの運転手をしていた父と、パート勤めをしていた母の元に産まれました。

公営住宅に住み、世帯年収が高いとは言えない家庭です。
しかしながら週末には外食、まとまった休みには近場ではありますが家族旅行に行くこともありました。
習い事もたくさん習わせてくれました。
保育園児で「やりたい!」と志願してピアノと英語を始め、
小学生になってからは習字、着付け、和太鼓、英語は辞めてしまいますがそのうち塾が加わってそれはもう多忙な10歳児です。学業よりも習い事が仕事でした。(笑)

今思えばよく生活できていたなと感じますが、幼かった私はそんなことを考えるわけもなく、もちろん不安もありません。
むしろ、贅沢と言われるであろうこれらの事はごく普通のことだとさえ思っていました。

中学に上がると陸上部に所属した為、木曜日以外は練習や大会があり、
大会の交通費も出してくれていました。
流石に中学生にもなれば、両親の収入が多くないことはわかっていましたが

不自由を感じなかった為生活に対しての危機感を持つこともなく、一番充実していて楽しかったです。

10代で知った本当の自立と孤独

中学の途中から勉強に躓き、頭は良くありませんでした。
陸上で学費が免除になる推薦もありましたが、万が一怪我をした時のことを考えて断ることにしました。
その後、学費が安いと言われていた私立高校を選び進学をします。

高校でも陸上を続けたいと思い入部をしたものの、女子部員が先輩におらず、私1人が選手として男子部員に混ざって練習をする日々。
ある日同級生でマネージャーとして入部していた女子数名と男子部員で揉め事が勃発し、
私も練習環境が合わずに入部してから5ヶ月で退部することになりました。

幼い頃から毎日忙しくしていたからか、
部活がなくなったことにより突然暇になりました。

ちょうどその頃、
父が「自己免疫疾患」という原因不明の指定難病の中に位置付けされる病気になっていました。

自己免疫疾患とは免疫系が正常に機能しなくなり、体が自分の組織を攻撃してしまう病気
(引用:MSDマニュアル家庭版)

母も私が小学校高学年にうつ病を患いパートを辞めていたため、父は検査や治療で病院に行きながらも働いてくれていました。
そんな姿をみて申し訳なさと、
今まで不自由なく育ててもらい、環境に甘えていた自分に気がつきました

「バイトをしよう。そうすれば自分にかかる多少の出費は自分で払える。」

たまたま家の近くで募集されていたお好み焼き屋のオープニングスタッフに応募をすると通りました。
慣れた頃には掛け持ちでもう一つバイトを増やしました。
部活を辞めたことによって空いた空白は全てバイトの時間へと変わりました。

ほぼ毎日バイトをしていますから、
自分にかかる日々の出費と、
父の日や母の日、誕生日などには両親を食事に連れて行きご馳走をすることもありました。
余るお金は遊びに消えて行きました。

自由に使えるお金も手にして、
高校生活をそれなりに楽しんで大学受験を迎えました

好きなこと以外で学ぶ場所に行っても何もしないだろう。と思い、
運動が得意だった私は推薦で体育大学を受験しました。
受験した4日後、夜中に父の容態が急変し救急搬送されたまま翌日に亡くなりました。

治療のために飲んでいた薬の副作用から癌になる可能性があると言われていたのですが、
患った癌が原発不明癌というこれまた珍しいもので、
診断されてから半年で旅立つことになったのです。

突然の別れに、私は向き合うことができませんでした。

家に帰れば泣いている母がいる。
関わることを避けた私はバイトと遊びでスケジュールをびっしりと埋め、
母の前で泣くこともせずただ寝に帰るだけの毎日を過ごしました。

大好きな父が亡くなって、初めて計り知れない喪失感と果てしない不安に駆られました。

大学の費用は奨学金を借りれた為、
なんとか通えそうで安堵していたのですが、

今度は母が「脊髄小脳変性症」という小脳が萎縮する難病ということがわかりました。
歩行がどんどん困難になり手も震えるため、ものも取りづらくなります。
当然母は働き始められる状況ではありませんでした。

大学生活スタートとほぼ同時に、
私は母の食事を準備してから学校やバイトに行き、通院があれば付き添いもするヤングケアラーになったのです。

家計の収入源は私のバイト代のみ。
家賃は幸いにも母の実家に住んでいたためかかっておらず、
生活費は母の持っていた貯金と私のバイト代で賄うようになりました。

親の存在の重要性と、生きることにはお金がすべてだということ、
健康に生き続けられる保証は何もない。ということを数年の間に思い知ったのです。

社会人生活スタート:経験から学習しない無駄遣い

やりたいことも特になく将来の夢もなかった私は、
とりあえず人と関わることは好きだし、普通より稼げそうな営業職でいっか
と、設備の導入サービスを提供する会社に入社しました。

風通しもよく人間関係のストレスもない良い会社です。
ただ、飲み会文化があったことで
入社してすぐはとにかく上司との食事の席に出るようにしていました。
それが習慣になり、上司とだけではなく同期との飲み会も増え
週4は飲みに行く生活を約2年送りました

母の食事準備などの家事生活は続いていたため、
家にいるよりも誰かと過ごす時間を過ごす方が気が楽だったのです。

そのため、バイト時代よりも多く手にできる給料のはずなのに、
将来を案じて貯金を熱心にすることはなく
一番お金の貯められる独身時代を無駄遣いで終えます。

結婚・出産:ライフイベントで抱いた後悔

入社してから気づいていたことがありました。
それは、中間層の社員が少ないということ。
人間関係は良くても給料が上がりずらいということから
ある程度の役職に就いた後や3年を節目にやめていく先輩方が多くいました。

入社から3年目になる頃に結婚をし、仕事では「主任」と言う肩書きを持たせてもらうことになった私は、
新入社員研修の一部を行ったり新しいプロジェクトの統括をしたりと
様々な仕事を任せてもらっていました。

そういった中でやりがいを感じつつ、私も必然的に転職を考え始めます

転職エージェントに登録して面談を受けた私はすぐに現実を知ることになりました。
飛び込みや架電などの新規営業が辛かったこともあり、

・営業職ではない仕事
・給料は下げたくない

と希望を伝えました。
するとエージェントの口から、

営業職から他業種の転職はまず難しいです。
新規営業が辛いならルート営業の会社に転職して、さらに2回ほど転職をしながらステップを踏んで職種を変えていくか給料を気にせず事務になるしかありません。

絶望でした。
なぜ選択肢を持てない営業職に就いてしまったんだろう。
何も考えずに就活をした自分を責めました。

ステップが必要ならもっと早く転職するべきだったかな…
とにかく営業職以外を自分で探して応募するしかない!

毎日求人とのにらめっこ、スカウトメールや求人紹介はすべて営業職のためスルーしました。
そして、自分で見つけた会社の選考を何社か受け、選考に少し進み始めたころ妊娠がわかりました。

このまま選考を進んで転職したとしても有休もなければ産前産後休暇も取れない。

一旦転職活動はやめ、今の会社で産休と育休制度を利用させてもらうことにしました。
休み中に求人サイトを見て育休中に転職活動をして会社を変えたいなと思いつつも、
出産をすると初めての育児にそんな余裕はなくただ時間が過ぎていくだけ。

あっという間に月日は経ち、第一子の育休が終了し復職をしました。
それまで積み上げたキャリアはなくなっていました。

後輩が自分と同じ役職か上の立場になり、責任が大きくかかる仕事はない。
時短勤務なのでチームを持つこともありません。
仕事に集中したくても保育園からの呼び出しがある。
病気になったら1日の休みでは済まない。

これまで通りの仕事はできないのだと知りました。

今後この会社でどう働いていくんだろう、貯金もない。子どもにお金の心配をさせずに育てられるだろうか。と考えを巡らせた末、

子どものためには環境を変えないといけない

そう思いました。

在宅ワーク・自分の理想の働き方との出会い

職場にワーママは数人いるものの、

  • 実家で子どもを見てもらいフル勤務で営業している先輩
  • すでに小学生に上がり児童館に通っている事務職の先輩
  • 旦那さんが保育関係に勤めていることから呼び出し対応には柔軟に対応できている先輩

参考にできる先輩はいませんでした。

専業主婦はお金の不安があるのになれるわけがない。
かといって事務への部署変更は大きく減給するかぁ。
パートを選ぶなら部署変更とあまり変わらないかな…

そんなことを考えながらも2人目の子どもを望んでいたため職場は変えずにいました。

そして第二子を授かりました。2回目の育休は育児も慣れていて余裕があるはずだし働き方を考えて準備をしよう。と心に決めていました。

そんな時…たまたまインスタで見かけたオンラインスクールの広告に心惹かれました。

その広告に言われた「自由な働き方を手に入れませんか?」の言葉

在宅ワークをして自由な働き方をしませんか?というものでした。

在宅ワークってなに?内職ってなんか細かいものを作るイメージしかない…
気になって調べて見ると、
家にいながら秘書やデザインを仕事にできるようにするためのスクールでした。

これだ…!

子どもにとって頼れるのは親である私と夫しかいない。
緊急時にすぐにでも駆け付けられるようになるには子どもの近くで働けばいい。
会社員の給料は頭打ちになるけど、この働き方なら収入upもできる。
そうなれば子どものやりたい習い事も自由にさせてあげられるし、在宅ならこれから訪れる”小1の壁”にも左右されない。
何なら家族との時間も優先できる働き方になるじゃん!!

こんなにも悩んでいたことを一気に解消できる方法があるならと
家で働けるスキルを身に付けることを決意しました。

最後に

完全在宅勤務を実現するには、会社員の給料と同じくらいに稼げるようにならなければいけません。
そのためには、スキルを身に付け行動に起こすことが必要になります。

冒頭でも書いたように、家で働いて1年後に月収20万、2年後に月収40万を達成すること
を目標にして、このブログでは達成するまでの道のりを綴っていこうと思っています

出産をすればそれまであった環境は大きく変化します。
そしてそれは女性であるからこそ、男性よりも影響を受けやすい。
これからも訪れるであろうライフステージに振り回されることなく、
大切な人のために自分らしく過ごせる働き方を手に入れてほしい。

このブログで、私と同じように働き方や復職に悩んでいる女性が悩みから解放される選択肢の1つを増やせればいいなと思います。

良かったら私の在宅ワーク目標達成までの過程を見守ってください。

最後まで読んでいただきありがとうございました!